ニュースレター号

[77号] ベールを脱いだ李在明政権の北朝鮮政策、「親日派」の財産をめぐる‘戦争’など

サポートメンバーの皆さん、アンニョンハセヨ。三日遅れとなってしまいましたが、77号をお届けします。

矛盾するようですが、ようやくニュースレターを出す感覚が蘇ってきました。それは絶えず「ニュースレターを通じ何を伝えるか」を考えているということです

おそらくジャーナリストは皆そうだと思いますが、世の中のどの部分に注目するのか、そのために何を読んでどこに取材に行くべきか、そしてそれをどう表現すべきなのかが、頭の中でぐるぐる回っています。このアウトプット先として、ニュースレターが真っ先に思い浮かぶようになったということです。

僭越ながら9月は、「本」から「記事」というアウトプットに戻すリハビリ期間と位置付けています。前回お伝えしたように、重い疲れもあるので、うまくシフトできるようにします。来週はYouTubeの収録もあるので、どこか地方に取材に行きながら休んできます。

一方でなんとなくですが、朝鮮半島問題(南北関係、核問題など)と他のジャンルを分離して、週二回書くのがいいのだろうなあと考えています。おそらく遠からずそうすると思います。まずは決まった金曜日にきっちり出すことから始めよという話ですが、あと一、二週で正常化させます。

さて、今号の中身は以下の通りです。

(1)李在明就任100日記者会見を読む
(2)ドキュメンタリー:「忘れられた売国の城」(KBS時事企画‘窓’、25年8月19日)
(3)「土台から変える」国家情報院のレポートから浮かび上がる、李在明の政権の北朝鮮政策
(4)あとがきに代えて

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(1)李在明就任100日記者会見を読む

9月11日、午前10時から李在明大統領が記者会見を生中継で行いました。就任30日目に続き、二度目の記者会見です。当初の予定から1時間オーバーし、約2時間30分にわたって、22の質問に答えました。

 記者会見を行う李在明大統領(手前)。大統領室提供。


 記者会見を行う李在明大統領(手前)。大統領室提供。

…と、ここで告白したいのですが、今回のニュースレターの記事を(2)→(3)→(1)という順番で書きながら、この李在明会見については別途、独立した記事として扱うことにしました。

(2)と(3)で1万字を超えてしまったからです。この記者会見は重要でして、短くまとめる訳にはいきません。18日までに別途、記事としてリリースします。

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(2)ドキュメンタリー:「忘れられた売国の城」(KBS時事企画‘窓’、25年8月19日)

次は毎回恒例のドキュメンタリー企画です。今回選択したのは、日本のNHKにあたる韓国KBSの時事ドキュメンタリー枠「時事企画‘窓’(시사기획 창)」で8月19日に放送された『忘れられた売国の城:朝鮮貴族の遺産追跡記(잊혀진 매국의 성:조선귀족 유산 추적기)』です。

番組タイトル。以下、画像はすべてKBSの同番組をキャプチャしたもの。


番組タイトル。以下、画像はすべてKBSの同番組をキャプチャしたもの。

番組はソウル市の玉仁(オギン)洞を背景に始まります。西村(ソチョン)とも呼ばれるソウル北部のこの地域には以前、「城」がありました。上記の番組タイトルにある建物です。

1950年代以降は同名の国連機関が利用したことから「アンカーク(U.N.C.U.R.K、国際統一復興連合会)」とも呼ばれていたこの建物の正式名称は、「碧樹山荘(ピョクスサンジャン)」と言います。

「碧樹」というのは、尹徳栄(ユン・ドギョン、1873〜1940)の号です。この「城」は尹徳栄が建設したものです。

在りし日の「碧樹山荘(ピョクスサンジャン)」。1973年の撤去前と見られます。


在りし日の「碧樹山荘(ピョクスサンジャン)」。1973年の撤去前と見られます。

尹徳栄はひと言で大日本帝国に積極的に協力した「親日派」でした。

姪が大韓帝国最後の(二代目の)皇帝、純宗(スンジョン)の妻・純貞孝皇后(スンジョンヒョファンフ)であったことから、国政に介入し、李完用(イ・ワニョン)、宋秉峻(ソン・ビョンジュン)らと共に、大韓帝国滅亡の音頭を取りました。

尹徳栄は韓日併合条約が成立する1910年8月29日に合わせ、姪である皇后から玉璽を奪い、大日本帝国に捧げた人物です(なお当時、国璽は押されていません)。

尹徳栄はこうした功を認められ、1910年10月、天皇から貴族に封じられます。いわゆる「朝鮮貴族」です。尹徳栄はこの時、現在のお金で約8500万円ほどの恩賜金を得ました。当時、16人に約77億円の恩賜金がありました。

中央が尹徳栄。悪そうな顔です。


中央が尹徳栄。悪そうな顔です。

番組に登場した専門家によると、こうした大日本帝国の動きには、「併合が合法的であった、支配層が望んだことだ」という正当化を目的とする狙いがありました。

尹徳栄はこの金を元に土地を買い、「城」を建設したのでした。背景には総督府による土地調査事業があったとされます。

近代化の名の下で土地を「政府」が管理するのですが、実際には地主や特権層の独占となりました。この恩恵を朝鮮貴族が得るのです。土地に値段が付き、上がり、この過程で朝鮮貴族が大儲けしました。「韓国史上最大の投機場だった」と番組の中で専門家が振り返るほどです。

なおこれも、「日本に協力すると良い暮らしができる」と、日本の帝国主義を崇めさせるための手段であったと番組では位置付けています。

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番組の舞台はソウルを離れ、京畿道の抱川(ポチョン)に移ります。この地の地主もまた、朝鮮貴族でした。その名は李海昇(イ・ヘスン、1890〜1950?)。

朝鮮王朝に連なる人物ですが、尹徳栄と共に「売国」を行ったばかりか、1942年には朝鮮貴族会会長を務め、太平洋戦争への協力を朝鮮人に呼びかけた人物として知られています。なお、死没年は明らかになっていません。朝鮮戦争当時、北朝鮮に拉致されその後、行方不明になっています。

李海昇。清豊君(チョンプングン)とも呼ばれます。


李海昇。清豊君(チョンプングン)とも呼ばれます。

現在、李海昇の孫は、ソウルにホテル(スイスホテル)を経営する他に、抱川ほか韓国各地に広大な土地を所有していました。尹徳栄と同様に土地調査事業を通じ、土地を得たのです。その土地は過去、最大で356万坪、1175万平方メートルに及びました。

土地は韓国の開発と共に売られ、膨大な利益を生み出しました。

李海昇が所有していた土地。韓国各地で合計356万坪に及びます。


李海昇が所有していた土地。韓国各地で合計356万坪に及びます。

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番組でも他にも、植民地時代の地籍原図を元に、朝鮮貴族の足跡を追っていきます。全国の土地の中で、朝鮮貴族137人の名前が占める面積を割りだしたのです。気の遠くなる作業です。

調査の結果、確認できる範囲で、朝鮮貴族49人が合計2858万坪を所有していました。

下図は、朝鮮貴族が所有していた土地の多寡を色の濃淡で示したものです。濃いほど多いということですが、人口の多い首都圏、交通の要衝である中部地域に集中していることが分かります。価値のある土地を、朝鮮貴族が押さえていたということです。

ソウルや首都圏が最も濃い。


ソウルや首都圏が最も濃い。

1945年の植民地からの解放後にも、朝鮮貴族はこの力を維持し続けました。

1948年、韓国初の国会に「反民族行為特別調査委員会」が設置され、親日派を断罪しようとする動きがありました。ですが権力維持のため親日派の協力が欠かせなかった当時の李承晩大統領は、これを妨害し、廃止させました。

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他方、民主化後の1990年代に入り、親日派の子孫が、失われた土地を探し始めます。裁判所は積極的にこれに応えますが、世間では反対世論が巻き起こります。

日本に協力し国を売り渡した親日派の財産を没収できないものか。その動きが形になったのは06年のことでした。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下で「親日反民族行為者財産調査委員会」が設置されたのです。

同委員会が発足した際の様子。


同委員会が発足した際の様子。

標的は李海昇など元「朝鮮貴族」の土地でした。ですが、この子孫たちも対応を急ぎます。国家との間に訴訟合戦も起きます。

李海昇の子孫は、同委員会が親日行為の根拠とした「韓日合併の功により爵位を受けたりこれを継承した行為」という文章を取り上げ、訴訟を起こします。

1910年当時、20歳だった李海昇には「功」が存在しなかったという主張です。一審では棄却されますが、二審では李海昇の子孫側が勝訴します。大法院(最高裁)でこの判決は確定します。政府も訴訟を起こしますが敗訴しました。

結局、16年の訴訟の末、李海昇の子孫から国家が還収した土地は4平方メートル(!)でした。

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番組には他にももう一人の朝鮮貴族・金甲淳(キム・ガプスン、1872〜1960)も登場します。同様に、子孫が大田(テジョン)市で土地の権利を主張し、学校と争っています。この土地は元々、尹徳栄の土地でもありました。裁判所は学校側を支持しましたが、今なお、裁判は続いています。

こうした出来事の背景には、前出の「親日反民族行為者財産調査委員会」が06年当時の土地所有状況だけを対象にしたことがあります。

植民地時代に朝鮮貴族がどう土地を得てきたのかを調査することができれば、状況は変わっただろうと番組内で関係者は悔やみます。法が発効するまでのわずかな期間に、慌てて土地を処分した「朝鮮貴族」の子孫も多かったそうです。国に没収されてたまるか、ということでしょう。

番組の最後には、イ・ジョンウォンという人物が登場します。独立運動家、李哲栄(イ・チョリョン、1863〜1925)の孫です。李哲栄は、李始栄(イ・シヨン)、李会栄(イ・フェヨン)の兄弟として知られる人物です。

彼ら六兄弟は1910年に国が奪われるや、全財産を処分し満州に渡り、武官学校を作るなど独立運動に身を投じます。その財産価値は現在の価値で約2000億円とも言われ、知らない韓国人はいないほど有名な話です。

イ・ジョンウォン氏。


イ・ジョンウォン氏。

ですがイ・ジョンウォン氏は今、小さな家で裕福ではない暮らしを送っています。番組では「朝鮮貴族」の子孫と対比させる目的で、同氏を取り上げているようでした(なお、李始栄や李会栄の子孫は国会議員になるなど出世しています)。

番組では最後に「大韓民国政府は朝鮮貴族の遺産がどこに、どれほどあるのか知らない。光復80年、この土地の完全な主人はまだ定まっていない」という字幕と共に終わります。

改めて、今年は植民地支配からの解放(光復)80年です。KBSがこうした番組を作るのを見ると、「ああ、本当に韓国と日本の現代史は異なるのだなあ」としみじみ思います。番組のYouTubeリンクを付けておきます。全編YouTubeで見られます。

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(3)「土台から変える」国情院のレポートから浮かび上がる、李在明政権の対北朝鮮政策

私は普段、いくつかの(いくつかしか存在しないのですが)韓国のシンクタンクから出るレポートを欠かさず読んでいます。今回は『国家安保戦略研究院』の一連のレポートを紹介します。

同院からは8月15日を前後して、李在明政権の対北朝鮮政策を読み解く際に参考となる、五つのレポートが相次いで発表されました。各タイトルは以下の通りです。

「国民主権時代、対北政策のパラダイム転換の必要性」(8月11日)
「80周年光復節慶祝辞と李在明政府の対北政策の意味と課題」(8月18日)
「平和共存を指向する新たな統一談論のための提言」(8月21日)
「米国の戦時作戦統制権転換の意図と、韓国の戦略的な考慮事項」(8月26日)
「南北関係の転換のための制裁対応戦略ロードマップ」(8月26日)、

同院は、その名が示すように、韓国の情報機関・国家情報院傘下のシンクタンクです。読者の皆さんには映画やドラマに登場する、KCIAや安企部といった呼称でおなじみかもしれません。

国家情報院は今なお韓国最大の予算を持つ情報機関として、北朝鮮をはじめ様々な地域の情報を集め、政権の政策決定に多大な影響を及ぼしています。

ですが正直、そのレポートは物足りないものがあります。常に奥歯にものが挟まったような物言いで、概観を知る以外の(ひとつも知らない内容も少なくないのでそれだけでも意味があるのですが)効果は多くありません。尹錫悦政権時代にはその傾向が顕著でした。

そんな中、この五つのレポートはかなり異色でした。

一つ一つよりも、全体として見る場合に、李在明政権初期の北朝鮮政策が浮かび上がってくるからです。現在、国家情報院の院長が李鍾奭(イ・ジョンソク、67)氏である点も合わせると、なおさらです。

今年7月4日、李在明大統領に任命状を授与された、李鍾奭(イ・ジョンソク)国家情報院長(右)。聯合ニュースより引用。


今年7月4日、李在明大統領に任命状を授与された、李鍾奭(イ・ジョンソク)国家情報院長(右)。聯合ニュースより引用。

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朝鮮労働党の研究で知られる同氏は、盧武鉉(ノ・ムヒョン、在任03年2月〜08年2月)政権の初期から南北関係の実務に関わり始めました。韓国にNSC制度を根付かせ、その事務処長を務めながら同政権の外交安保政策のブレーンとして辣腕を振るいました。後に統一部長官も務めています。

当時の成果としては、過去最高の合意とされる05年9月の六者協議による『9.19合意』まで、辛抱強く盧武鉉政権を引っ張りました。

また、金大中(キム・デジュン)、在任98年2月〜03年2月)政権で進められた、北朝鮮に対する包容政策(実際には関与政策。南北交流を通じ北朝鮮を改革開放に導こうとした)から、南北の平和共存政策への転換を主導する役割を果たしました。

盧武鉉政権後はシンクタンクで北朝鮮研究を続けてきましたが今回、満を持して、国家情報院長という重責を担う形でふたたび政権入りしました。いわば北朝鮮政策における進歩派最高のブレーンと言えるでしょう。

前置きはこの程度にして、それぞれのレポートを見ていきましょう。

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一つ目の「国民主権時代、対北政策のパラダイム転換の必要性」では、いくつかの問題提起をしています。例えば韓国の北朝鮮政策に関連し、「脱冷戦期的な想像力またはパラダイムに対する根本的な省察と克服が必要」としています。

これを具体的に、「南北間の経済交流や北朝鮮の自由化を通じ、北朝鮮の体制が遠からず急速に変化する」という考え、もしくは「そのような変化を外部から強制することができる」というアプローチであると整理します。

その上で、保護主義や民族主義の高まりという世界の潮流の中で、新たな南北関係(北朝鮮政策)のパラダイムとして、「実質的な核保有国である北韓(北朝鮮)との長期共存、相当な期間の間の南北競争の持続」を提示しています。

これはつまり、80年代末から30年間続いた韓国優位の南北関係が終わったという認識を、韓国社会に求めるものです。

一連のレポートの先頭に掲げられたこの認識は、李在明政権の北朝鮮政策の土台を示すものとして、非常に重要です。この新たな土台の上で、いかに南北は平和に共存できるのかを考えていくのが李在明政権の対北朝鮮政策となります。

また、最も重要な当面の課題として「南北間の偶発的な武力衝突の状況を防止し、その間、激化した南北間の緊張を緩和させること」を掲げています。

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二つ目の「80周年光復節慶祝辞と李在明政府の対北政策の意味と課題」では、今年8月15日にあった李在明演説のポイントを以下の5つにまとめています。

①民主主義の土台であり、経済発展の条件としての平和構築の重要性を最優先的に強調した→実用主義を掲げる李在明政権の姿勢の根幹を成すもの。

②「南北間の交流協力の増進が政治的な和解と軍事的緊張の緩和につながり、平和構築に寄与する」という既存のアプローチに限らない、先制的な措置を取る→長大な南北関係の設計図を定めそれに沿って関係改善を進めていくよりも、韓国が先にできることをやるという実践主義的な構え。

③北朝鮮が23年12月に掲げた「敵対的二国家関係」を否定しながらも、‘統一’を掲げず、平和共存を掲げることで北朝鮮の反応を待つことに→韓国はあくまで「南北は特殊関係」という過去の枠組みを維持するも、基本的にできることをやりながら北朝鮮の出方の変化を待つ。

④南北間の経済協力や相互交流は急がず→やはり北朝鮮の出方を待ちながら、どのような南北交流が実質的に可能なのかを模索する。

⑤北朝鮮の非核化は国際社会との協力を通じ、平和的で漸進的な方式を扱っていくという原則を再確認→非核化が「短期間に解決することができない、複合的で、とても難しい課題であることを認めた」。

一連の内容は、先に挙げた「土台」の上の「原則」ということができるでしょう。これに沿って政策を決めるガイドラインとなります。

8月15日に演説する李在明大統領。大統領室提供。


8月15日に演説する李在明大統領。大統領室提供。

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三つ目の「平和共存を指向する新たな統一談論のための提言」では、一つ目のレポートで掲げた土台の部分を、どう現実に当てはめていくのかを、憲法4条の解釈を変えることを例に示します。

韓国は1948年の政府樹立以降、9回に及ぶ改憲を行っています。直近の憲法は、1987年6月の民主化の結果、生まれたものです。この時、第4条に「大韓民国は統一を指向し、自由民主的な基本秩序に立脚した平和的な統一政策を樹立しこれを推進する」という条項が新設されました。

これは一般的に「韓国の体制である自由民主主義の下、南北が統一されるべき」と解釈され、北朝鮮では「吸収統一の野欲(企み)」と韓国を拒否する根拠となっています。

しかしこのレポートでは、先に挙げた‘土台’となる認識の上に、第4条を消極的に(積極的ではなく!)解釈することを提案しています。

どういうことでしょうか。

まず、「自由民主的な基本秩序」について、市場主義や自由主義としてだけ見るのではなく、社会民主主義(社民主義)まで含む広いスペクトラムへと再解釈することを示しています。これは私の新著『分断八〇年』でも引用しましたが、韓国の気鋭の憲法学者の主張として昨今、大いに注目されています。

次に、「自由民主的な基本秩序」が必ずしも「北朝鮮をそう変化させる」ことを示すのではなく、統一の過程の原則を示すものであると再解釈するものです。

つまり、平和共存(消極的な統一)をするからといって、韓国が「自由民主的な基本秩序」を捨ててはいけない意味です。ややこしいですよね。レポートでは「(北朝鮮に)侵略的な意図がなく、最低限の人権が保障されるなら、非自由主義的な北朝鮮体制との共存と統一も考慮できる」と明かしています。

最後に、「自由民主的な基本秩序」が、未来の統一国家の秩序ではなく、そこに向かう過程の原則であるということです。

すぐ上の内容とかぶるものですが、こうした理解により統一に向かう過程の現実性を担保できる、つまり、南北間の対話や共存の「空間」が生まれるという解釈と受け止めれば良さそうです。

整理すると、南北統一の金科玉条と思われていた第4条を柔軟に解釈することで、南北関係に「共存」という中間段階を作ることを、憲法的にも可能にすると理解すればよいでしょう。

なぜこの変化が重要かといいますと、そもそも1987年の改憲で第4条が作られた際の背景こそが、韓国(米国を代表とする自由主義陣営)の圧倒的優位だったからです。

本節の冒頭で述べたように、この前提(土台)が崩れた今、解釈を変えるべきというのはある意味、当然の変化といえるでしょう。理論的枠組みの提供と言えます。

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四つ目の「米国の戦時作戦統制権転換の意図と韓国の戦略的な考慮事項」でも、画期的な提案が続きます。

まず戦時作戦統制権とは何か、という話から始めなければならないでしょう。

これは文字通り、戦争時の韓国軍の作戦統制権のことです。指揮権といえば分かりやすいでしょう。

1948年8月15日の韓国政府樹立時から韓国政府が当然のように保持していましたが、1950年6月25日に北朝鮮の攻撃により朝鮮戦争が始まってすぐの50年7月14日に当時の国連軍司令官であるマッカーサーに移譲しました。背景には、指揮権をまとめた方が効率的だという李承晩の考えがあったとされます。

1953年7月27日の朝鮮戦争休戦の後にも、米国は当時の李承晩(イ・スンマン)韓国大統領が北朝鮮へと「北進」できないよう、作戦統制権を返還しませんでした。その後、1978年に米韓連合司令部が設立された際に、米韓連合軍司令官に移譲され今に至ります。

どのように作動するかというと、米国防総省の戦争準備態勢「デフコン(DEFCON)」が「3(平時は5)」になった時に、韓国軍の指揮権が合同参謀本部から米韓連合司令部に移るという形です。

なお「戦時作戦統制権」というのは盧泰愚(ノ・テウ、在任1988〜1993)時にできた言葉です。当時、盧泰愚は作戦統制権を取り戻すことを公約としましたが、「平時」と「戦時」にこれを分け、前者は1994年に返還された経緯があります。

この戦時作戦統制権の還収(転換とも表現)を積極的に進めたのが盧武鉉(在任03〜08年)政権でした。先述したように、その中心にいたのが李鍾奭、現国家情報院長です。

盧武鉉大統領に統一部長官の任命状を授与された際の写真。2006年2月のことです。盧武鉉財団提供。


盧武鉉大統領に統一部長官の任命状を授与された際の写真。2006年2月のことです。盧武鉉財団提供。

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07年2月、米韓の国防長官が12年4月17日に戦時作戦統制権を転換すること(韓国に返還)で合意しましたが、李明博(イ・ミョンバク、在任08年2月〜13年2月)政権下で15年12月1日へと訂正され、朴槿惠(パク・クネ、在任13年2月〜17年3月)政権下で無期限延期となりました。保守政権は国防の不安から、消極的です。

その後、文在寅政権ではふたたび転換政策に転じましたが、新型コロナや北朝鮮の核開発により漂流し、尹錫悦政権を経て、李在明政権下で状況が変わりました。

第二期トランプ政権下で国防政策に多大な影響力を持つとされる、国防総省ナンバー3のエルブリッジ・コルビー国防次官は、戦時作戦統制権の転換に賛成しています。

同氏はそれどころか、韓国軍がより自主的になることを望んでいるとされます。

レポートによると実際に米国は、戦時作戦統制権転換における「条件」として、▲韓国の責任と費用の増大、▲域内の安全保障上の脅威は、韓国や日本など、その地域の核心的な同盟国が可能な限り独自的・自律的に対応し解決する、▲米国は支援の役割に注力する、▲(そうして生まれた)余力を米国主導のグローバルな覇権の安定化戦略に活用する、点を挙げているとします。

レポートでは、こうした前提を受け入れながらも、韓国政府に対し柔軟な対応を注文します。

韓国は戦時作戦統制権を得たとしても、米国や日本の協力なく独自で戦争を遂行することはできず、逆に上記のような理由から、中国との軋轢が深まる可能性があることなどから、域内(東アジア)で新しい安定化のメカニズムを構想する必要があると説きます。

その上でレポートでは、この戦時作戦統制権の返還を「新たな国家のアイデンティティ形成のためのきっかけとして活用すべき」と説いています。つまり、朝鮮戦争の過程で米国に渡した戦時作戦統制権が返還されることで、戦後続いた米韓の不均衡な関係を変えるべきという意見です。

この見解には思わず唸りました。

同時に、自主国防に対する李鍾奭院長(そして故盧武鉉大統領)の強い執念も感じました。李鍾奭院長は明らかに、南北の均衡と米韓の均衡という新しい韓国の形を描いています。

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最後となる五つ目の「南北関係の転換のための制裁対応戦略ロードマップ」を見ていきましょう。

ロシアとの結びつきの強さの影に隠れていますが、北朝鮮は今も国連安保理からの制裁と、米国や欧州諸国、日本や韓国からの経済制裁を受けています。五本目のレポートでは、この枠組みの中で、韓国が北朝鮮とどう実質的な関係を結んでいくのかを考察しています。

結論としては二つのやり方を提示します。

まずは「制裁内」のやり方です。ここでは2022年の国連安保理決議2664号に注目します。「常設人道主義例外規定」と呼ばれるこの決議は、国連制裁の対象国への人道支援の際の手続きを、簡素化するものです。

通常では数か月かかっていた手続きが一週間程度に簡素化された上に、国際傘下の機関や、国際赤十字、さらに国際人道支援NGOの活動は、事前の承認すらいらなくなりました。

金融機関も協力的な態度を見せているそうです。韓国政府はこの決議案をテコに、事前承認の必要ない機関を経由し、北朝鮮に対し間接的な協力事業を行うべきと提案します。さらにその際には、環境・気候変化・災害管理といった分野から行うべきという念の入れようです。

こうして小さな実績を積み重ねていくことで米国を説得し、国連とは別の米国の強力な独自制裁における例外を作る方向に向かうという戦略のようです。

もう一つは「制裁外」のやり方です。これは韓国がモンゴルや東南アジア、アフリカ諸国といったいわゆる「グローバル・サウス」国家と協力し、北朝鮮への開発協力をする経路を確保するというものです。

分野は「非衝突分野」と呼ばれる、農業・保険・学術協力・気候といったものを考えているようです。さらに中国やロシアの専門家と非公式な交流を通じ、南北間の信頼醸成後には、韓国と中国ロシア、北朝鮮が参加する「トライアングル協力モデル」につなげていけるというプランもありました。

18年4月27日に板門店で行われた南北首脳会談での一コマ。写真は合同取材団。


18年4月27日に板門店で行われた南北首脳会談での一コマ。写真は合同取材団。

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この五本目のレポートの末尾には、「今後の南北関係(改善)の成否は、制裁内のでの協力と、制裁外での実験的な協力にかかっている」とあります。つまり今後、韓国政府はここに上がった行動を実際に進めていくということです。

限られた環境の中で一点突破でやるというのは、見方を変えれば「北朝鮮式」とも受け止められる戦略です。

こうしたやり方の背景には、文在寅政権下で南北関係が好転した2018年、19年初頭の「ボーナスタイム」の中でついに国連制裁の壁を乗り越えられず、北朝鮮内での実質的なプロジェクトを行えなかった痛恨の記憶があります。

当時、文在寅大統領の優柔不断さ、決断力・突破力の無さには進歩派内からも厳しい批判がありました。

北朝鮮が韓国に敵対的な態度を取るという、当時とは180度異なる環境ですが、これを成し遂げないことに南北関係の未来はないという覚悟が読み取れます。一方でこのやり方は、決断能力に長ける李在明大統領の姿勢とも合うでしょう。

レポートではまた、北朝鮮への協力プロジェクトを行う中で、「北朝鮮は貧しい」といった視点からのアプローチをすべきでないとも指摘しています。

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さて、記事がずいぶん長くなってしまいました。五本のレポートを整理しますと、以下のようになるでしょう。

「核保有国・北朝鮮との長期(平和)共存のために、実用主義的な政策を実施しその成果を蓄積し、敵対的な北朝鮮の出方の変化を待つ。具体的な政策としてまず、国連機関やグローバルサウス国家を利用した北朝鮮への人道協力を進める。並行して韓国内では憲法4条の消極的解釈を通じ、北朝鮮をめぐる国内の進歩・保守陣営間の葛藤を和らげる一方、戦時作戦統制権転換を通じ米韓関係の不均衡を修正していく」

これこそが現時点における李在明政権の北朝鮮政策ならびに朝鮮半島政策の根幹であり、冷戦終結から30年を経る中で韓国の進歩派が新たに設定する土台と言えるでしょう。

李鍾奭(イ・ジョンソク)国情院長の苦心の跡がうかがえます。これが全て実現するかは分かりませんが、重要なガイドラインとなるものだと思います。

別途、2500字くらいにまとめて、ヤフーなどに寄稿します。

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◎あとがきに代えて

ツイッターにも書きましたが、「本を書いておいて良かった」としみじみ思っています。上記、長々と書いた李在明政権が目指す朝鮮半島政策も、おそらくこの記事を読んだだけでは「???」な部分が少なからずあるでしょう。

それは当然です。過去の蓄積の上に今があるため、その間の動きを知ってこそ理解が深まります。その材料を社会に提示できるという点に、本の価値があります。発売まであと10日あまり。ご予約いただけると、発売日に届きます。よろしくお願いいたします。

それではまた次回(今週です!)のニュースレターでお会いいたしましょう。コメントやご要望などありましたら、ご遠慮なくお送りください。ありがとうございます。(徐台教)

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