サポートメンバーの皆さん、アンニョンハセヨ。日本のニュースからは地震や台風といった単語が飛び込んできますが、いかがお過ごしでしょうか。何事もなきよう遠くから願っております。
実はニュースレターは9月で創刊一年を迎えます。その間、ニュースレターがどんな役割を果たしてきたのか、色々と自問しています。読者の皆さんのご意見もぜひお聞きしたいです。どんな内容でも構いませんので、本ニュースレターのコメント欄にお書きいただくか、seodaegyo@gmail.com までお送りいただけると嬉しいです。
まだ完全に結論は出していないのですが、より研ぎ澄ました形へとニュースレターを変えていこうと考えています。
ニュースが溢れる世の中、特に朝鮮半島に関する主要ニュースのほとんどが日本語で無料で読める世の中で、どんな価値を持たせるべきなのか。そして、どんな社会的な変化につなげていくのかという部分が悩みのポイントです。8月中には方向を決めて一周年を迎えることができたらと思います。
今号の目次は以下の通りです。
(1)北朝鮮北部の水害に韓国赤十字が支援申し出も「拒否」
(2)北朝鮮の予防接種率が大幅に低下
(3)金正恩氏の「歴史的な演説」の中身は
(4)ドイツが国連軍司令部に加入、その真意は
(5)「シルミド事件」に韓国政府が謝罪
(6)オドゥサン統一展望台に「脱北民を称える碑」が設置
(7)あとがきに代えて:8月15日に尹大統領は何を語るか
それでは本文に入ります。
(1)北朝鮮北部の水害に韓国赤十字が支援申し出も「拒否」
7月末、北朝鮮を襲った集中豪雨。当時、韓国でも少なくない被害が出ましたが、北朝鮮では西北部の平安北道や北部の慈江道(チャガンド)で大きな被害が出ました。とりわけ、鴨緑江河口が水浸しとなりました。
北朝鮮の国営メディアによると、新義州(シニジュ)市や義州(ウィジュ)市で住宅4100世帯あまりと3000ヘクタール以上の農耕地が浸水したとのことです。また、金正恩氏が陣頭指揮を執り、5000人以上の罹災者を救出したと、たくさんの写真や映像と共に伝えています。
1日、韓国の大韓赤十字社は会見を開き、北朝鮮の水害に対し支援を行う用意があることを明かしました。「人道主義と同胞愛の見地から」という理由でした。南北の間には現在、公式の連絡チャンネルが一切ない状況のため記者会見という形となりました。
窓口となる統一部は「対面、書面、第三国での接触」という様々なオプションを提示しました。
韓国メディアによると過去、韓国が北朝鮮で起きた水害に支援したのは5度。95年、05年、06年、07年、10年のことです。いずれも金正日時代のことで、金正恩時代にはありません。
大韓赤十字社はこのように、北朝鮮の赤十字社に対し協議を望むとしましたが、この申し出は他でもない金正恩氏によって拒否されました。
水害の様子。完全に水浸しです。朝鮮中央通信より。
2日、救助に参加した空軍のヘリコプター部隊を訪ねその労をねぎらった金正恩氏は、演説の中で「敵(韓国)のゴミのような言論(メディア)は、わが被害地域に1000人または1500人が超えると推測でき、救助任務を遂行中に数台のヘリコプターが墜落したというねつ造された世論を広めている」としながら、「敵は変わらぬ敵」と続け、強い拒否反応を見せました。
ここで言及された内容は、韓国政府が明かした被害状況ですが、北側がこれを否定しています。何が真実なのかは分かりません。ただ、北朝鮮内部に取材網を持つ日韓のメディアでは、被害の程と復旧の難しさを伝えています。
韓国政府と赤十字の支援提案に対し、韓国社会では一斉に歓迎の声が上がっています。敵対感を高め合うだけの南北政府の流れが変わって欲しいという世論に沿ったものです。
一方、金正恩氏はロシアに対しては韓国に対するものとは180度異なる対応をしました。
朝鮮中央通信は4日、前日にプーチン大統領からの慰労の書簡が届いたことを明かしつつ、書簡の中でプーチン氏が「人道主義的な支援を迅速に提供する用意を表明した」と伝えました。
これに対し金正恩氏は「既に立てた計画に従い復旧作業が進んでいく」とすぐに受け入れる気がないことを示しつつも、「今後、支援が必要な時には最も真の友、モスクワに助けを求めるだろう」と述べたとのことでした。
こうした対応に一喜一憂する必要はないのでしょうが、ずいぶん遠くに行ってしまったなと思います。
なお、韓国の人道支援団体は北朝鮮と独自の接触を許可してくれるよう韓国政府に求めていますが、これが実現するかどうかは分かりません。
(2)北朝鮮の予防接種率が大幅に低下
世界保健機構(WHO)と国連児童基金(UNICEF)が7月15日に「2023年国家予防接種推定値(WUENIC)」を発表しました。国別の予防接種率を整理した報告書です。これを元に北朝鮮の低い予防接種率について国策シンクタンクの『統一研究院』がレポートを出したので、その内容をまとめてみます。
まず大きくは、結核(BCG)、ジフテリア・破傷風・百日咳(DPT1、DPT3)、B型肝炎(HepB3)など、1歳以下の児童に接種すべき11種のワクチンのうち、90%以上の接種率を達成しているものはありませんでした。
結核(BCG)の場合には22年99%から23年には63%に低下し、ジフテリア・破傷風・百日咳1次(DPT1)も23年には41%と、世界平均の89%の半分以下となっています。他にもDPT3次で16%、麻疹1次(MCV1)も28%(19年には98%)と、軒並み50%以下の接種率となっています。
また、「ゼロ・ドーズ」と呼ばれる無接種児童の数も、19年の7000人から、23年には19万9000人と28倍も増えていることが国連の報告書では指摘されています。国際社会では2030年まで予防接種の議題を優先すべき20か国の内ひとつに北朝鮮を挙げています。
国連報告書にある、北朝鮮の予防接種率。統一研究院レポートより再引用。
上記グラフにあるように、こんな下落傾向は2020年から始まっていいます。理由はどこにあるのでしょうか。
残念ながら統一研究院のレポートにも、元の国連報告書にもその根本的な理由は書かれておらず、ただ一行、国連報告書に「2022年から23年にかけて麻疹2次(MCV2)ワクチンは在庫不足で接種できなかった」とあるのみです。
こうした事態の受け止めについて、統一研究院のレポートではまず、北朝鮮政府におる自国児童への人権侵害と位置づけています。
その上で、韓国政府に対し必要な対策を立てるべきと勧告しています。また、韓国政府はWHOやUNICEFといった、これまで北朝鮮政府と協力を続けてきた機関との協力を強め、北朝鮮国内で支援を必要とする人口のデータを確保する必要があるともしました。
レポートでは最後に、北朝鮮当局に対し努力を求めました。特に、北朝鮮の保健相がWHO総会で「人民の健康と福祉が国家的な最優先課業である」という旨の発言を行ったことを想起させつつ、国際社会との協力をより拡大する必要があると強調しました。
なお、ちょうど今月2日、UNICEFは今年1月から6月まで東アジア地域における人道主義状況に関する報告書の中で、北朝鮮に注射器や医療機器、医薬品など161万ドル(約2億3300億円)相当を支援したと明かしています。
この中には、60万人を超える児童と、25万人の出産女性に接種するためのワクチン(麻疹、DTP、結核、B型肝炎、ポリオなど)が含まれていたそうです。
ワクチン不足の理由の一つにコロナによる国境封鎖や貿易の減少があったのでしょうが、豊富な兵器開発の実情からは「優先順位をわざと低くしている」という批判を避けられません。
金正恩政権は全住民が「人として最低限の生活」を営為できるようすべきです。あえて「人として」を強調したいところです。
(3)金正恩氏の「歴史的な演説」の中身は
8月4日、北朝鮮で「新型弾道ミサイル武器システム受け渡し記念式」が行われました。
これは、『火星11ラ型』近距離弾道ミサイルを発射するためのトラック(TEL)を「前線」つまり「韓国との軍事境界線沿い」に配備するために行われたもので、その数は250台にのぼります。
韓国軍によると同ミサイルの射程は約150キロ程度で、KN-23(北朝鮮版イスカンデル)を小型化したものです。短距離弾道ミサイル(SRBM)よりさらに射程が短いため「CRBM(近距離弾道ミサイル、Close-Range Ballistic Missile)」区別して読んでいるようです。
8月4日に行われた記念式。朝鮮中央通信より引用。
この席に出席した金正恩氏は「歴史的な演説」(朝鮮中央通信)を行いました。いったいどこが歴史的なのでしょうか。全文が公開されているのでいくつか引用してみます。
金正恩氏はまず、今回のミサイルは「国防防衛力の重大な空間を埋め、軍事力の主力を占める軍事的な価値がとても大きい戦術武器」と位置づけ、さらにこれを「自身の力と技術で生産した」と関係者をねぎらいました。1年に満たない短期間に大量生産を行ったとも述べています。
さらに今回の配備により「全ての前線で敵(韓国)に対する圧倒的な攻撃力量と打撃力の優位をもって、作戦上の主導権を握れるようになった」と自賛しました。特に「戦術核の実用的な側面からも効果を高めた」としています。
韓国各紙の記事を見ると、このミサイルには核弾頭は登載できないものの、核弾頭登載が可能な他のKN-23、KN-24、KN-25といったミサイルと一緒に配備され、その脅威が増していると分析があります。
今回の演説が歴史的なのは、このように韓国への完全な抑止力を手に入れたと位置づけているからではないでしょうか。最新ミサイル配備における峠を越えた自信が、金正恩氏の発言の端々に感じられます。
写真にあるようなズラリと並んだTELを前に「建国以来、創軍以来はじめてとなる威嚇的な壮観」という表現にも達成感が表れています。
4日、演説する金正恩氏。朝鮮中央通信より引用。
演説ではまた、金正恩氏の安保観も改めて強調されています。
それは「米国主導の同盟関係が核を基盤とする軍事ブロックへとその本質と性格が変わっている」というものです。これに合わせ北朝鮮もまた変わる必要があるというもので、さらなる抑止力の強化を訴えています。
金正恩氏はさらに「強力な力の構築により担保されることが、まさに真の平和だ」と述べています。
ニュースレターの読者の皆さんならすぐにお気づきかと思いますが、「力による平和」は尹錫悦政権の十八番でもあります。
朝鮮半島において、南北勢力による際限ない軍事力強化という「安全保障のジレンマ」が現実化していることがよく分かる発言です。
金正恩氏の演説には他にも、米国について特徴ある言及がありました。まずその位置づけですが「私たちの後代も代を継いで相手することになる、敵対的な国家の実体である」としています。
そらに、その米国が北朝鮮をおびやかし続けているという認識の下、これこそが「偉業の正当性の反証になる」としています。つまり、米国の脅威ある限り「自衛的な国防力をより完璧に、加速的に整える」という論理です。
金正恩氏は演説の中で何度もこの論理を徹底して掲げた上で、「並進路線」を強調します。これは「核戦争抑止力の高度化」と「経済発展ならびに人民生活の向上」を同時に行うというものです。
しかし実際は見てきたように、‘まずは国防’というものです。
核と経済の「並進路線」は朝鮮半島の対話の機運が最高潮に高まった18年4月に金正恩氏が一度総括しました。そして当時、「これからは経済発展」と路線が変更されたのですが、この度の演説では「10余年にわたって一貫して堅持してきた」と言及しています。この部分からは、核を手放すことがないという金正恩氏の思いが透けて見えます。
金正恩氏は演説の最後で「われわれ式の先端武装装備をより多く開発生産し、実践配備する」とし、不断に更生(更新)される力の中に「永遠の勝利と真の平和、幸福と平安がある」とします。
しかしこれまでもできなかったことを、これからどうやってやるというのでしょうか。
(4)ドイツが国連軍司令部に加入、その真意は
8月2日、ドイツが国連軍司令部に加入しました。18番目の会員国となります。
韓国の申源湜(シン・ウォンシク)国防長官はこの日、ソウルでドイツのピストリウス国防長官と会談した際に「ドイツの国連軍司令部加入により、韓国と国連軍司令部が北韓の脅威に対する共同対応のための新たなパートナーを得ることとなった」とその意義を評価しました。
日本では聞き慣れず、さらに韓国人もその実態をよく知らない「国連軍司令部」ですが、これは1950年6月25日の朝鮮民主主義人民共和国の「南侵」による朝鮮戦争の勃発を受け組織されたものです。
戦争は53年7月27日に休戦となりましたが、国連軍司令部は今も韓国に存在しながら、北朝鮮に睨みをきかせています。なお、最高司令官は一貫して米国の将軍が務めています。
2日、会談後に握手する両国の国防長官。韓国国防部提供。
それではなぜ今、国連軍が拡大しているのでしょうか。
実は、国連軍をめぐる議論は非常に奥深く、短い記事では伝えきれません。
例えば「国連軍司令部」というその名称について、本来ならば50年7月7日の国連安保理決議案84号にしたがい「統合司令部」と呼ばなければならないものを、米軍が勝手に「国連」と名付けているといったものです。
韓国の専門家によると、53年7月27日に停戦協定が締結された際に、朝鮮戦争に「国連軍」として参加した16か国はワシントンに集まり「ふたたび戦争状況が起きる場合、再参戦するという決意」を「ワシントン宣言」として発表したといいます。これが今日、国連軍会員国が集まる根拠となっているというのです。
国連軍司令部の目的は主に、停戦体制を管理し、有事の際に戦力を円滑に提供・展開するというものです。
しかし今では、国連軍司令部は東アジア地域の核心的な統合司令部としての役割に向け強化されています。
在韓米軍司令官が国連軍司令官と米韓連合司令官を兼ねる中、国連軍は国連軍後方司令部がある日本との取り決めにより7つの在日米軍施設・区域(キャンプ座間,横須賀海軍施設,佐世保海軍施設,横田飛行場,嘉手納飛行場,普天間飛行場,ホワイトビーチ地区)を使用できます。
国連軍司令部の強化は2014年に本格化し、19年にはドイツの連絡将校が国連軍に参加することが明らかになりましたが、事前に知らされていなかった文在寅政権の反対により立ち消えになりました。それが尹政権の下で、正式なドイツの加入となった訳です。
韓国政府には戦時作戦統制権が今もありません。これは、有事の際に韓国は米軍の言いなりになることを示しています。尹政権は国連軍司令部の拡大が、韓国政府の安全保障にプラスにはたらくと考えているようですが、果たしてそうなるでしょうか。
韓国の進歩派専門家の中では、国連軍司令部の拡大は「主権の問題」として捉えられています。東アジア版NATOの枠組みを国連軍が担当し、韓国は戦時作戦統制権の還収もできないまま、なし崩し的にこれに参加しているという視点です。
さらに、ドイツの次は日本の国連軍司令部への参加(まずはオブザーバーとして)も噂されています。
つまり、ただ事ではないということです。今後、絶え間ない注目と監視が必要でしょう。
(5)「シルミド事件」に韓国政府が謝罪
韓国紙『ハンギョレ』は8月5日、韓国国防部が「シルミド事件」について謝罪することを決めたと報じました。
同事件はソウルから車で約1時間半。韓国の仁川(インチョン)に隣接する島、「実尾島シルミド」を舞台に1971年8月23日に起きたもので、具体的には同地で3年4か月にわたり訓練を受けていた男性24人が教官ら18人を殺害した後、ソウルを目指す途中で軍警と衝突した出来事を指します。
当時シルミドを抜け出せたのは20人とされ、うち16人は衝突現場(2人は病院で死亡)で死亡しました。残る4人は捕縛され軍事裁判で死刑判決を受け、翌年3月に刑が執行されました。
その遺骸は今なお見つかっていないのですが、軍は政府機関『真実和解委員会』の勧告を受け、今年9月から10月にかけてこの4人の遺骸を掘り起こす事も決めています。
謝罪の中身は、最初の開土式の際に国防部長官名義の謝罪文を軍人権改善推進団長が読み上げるというのです。開土式というのは、土を掘る際に行う祭事の一種です。「シルミド事件」について軍が謝罪するのは初めてのことです。
同事件について、韓国では一般的に03年の映画『シルミド』を通じ知られています。
アン・ソンギ、ソル・ギョングといったスターを擁し、史上はじめて観客動員1000万人を動員した映画として高い知名度があります。読者の中にはご覧になられた方も多いのではないでしょうか。
しかしこの作品は歴史的事実と異なる部分があまりにも多すぎるため、歴史の理解には役立ちません。
映画『シルミド』のポスター。
なのでこの場を借りてもう一度、シルミド事件を振り返ってみましょう。そこから見えてくるものがあります。
1968年1月21日、北朝鮮の特殊工作隊31人がソウル所在の大統領府・青瓦台を襲撃しました。韓国で『1.21事態』と呼ばれる出来事です。襲撃は失敗し、その過程で28人が射殺され2人は逃走、1人が降伏しました。
この1人が金新朝(キム・シンジョ)です。
金は事件後の会見で襲撃の目的について「朴正熙の首を取りに来たんだ!」と堂々と語り大いに話題となりました。なお同氏はその後韓国に定着しました。80歳を超えた今も元気で、たまに韓国メディアのインタビューに答えています。
当時、襲撃の対象となった当時の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は激怒し、報復を指示します。
これを受け中央情報部(現国家情報院)の計画の下、同年4月1日、空軍に特殊工作隊が結成されました。
編制上の正式名称は「空軍2325部隊209派遣隊」で、結成時期の68年4月を取って「684部隊」、作戦名から「オソリ(アナグマ)部隊」そして、訓練地から「シルミド部隊」と様々な名称で呼ばれます。
その任務は「1.21事態」の実行部隊(124軍)基地への報復と、金日成首席宮の爆破、つまり金日成の暗殺でした。
韓国の陸軍と海軍には当時、「北派工作員」と呼ばれる特殊要員がいました。文字通り北朝鮮に潜入し任務を果たす者達で、作戦を何度も成功させてきました。
しかしこの金日成暗殺部隊は空軍に作られます。理由は、平壌に侵入するためには空路、つまり落下傘で降下する他に方法がないためです。
部隊の人数は『1.21事態』を起こした北朝鮮軍と同じ31人。いずれも男性で、全国から集められました。なお、映画では死刑囚や重犯罪で服役中の受刑者を集めたという設定ですが、実際には受刑者は一人もいませんでした。当時、法務部がこれに反対したといいます。
多くは、好待遇を与えるという甘言にそそのかされた20歳から31歳までの地方でくすぶっていた普通の若者たちです。
リクルーター達は「3か月の訓練を受け、北朝鮮で写真を撮影する任務に成功する場合に、少尉として任官させる。除隊を望むものは就職口を斡旋する」と誘いました。他に特殊手段を含める少なくない給料(月600ドル)や、定期的な外出といった条件も提示されました。
ちなみに入隊時に目的が金日成の暗殺であることを知らされていた者はいなかったと言います。
こうしてシルミドに集められた隊員はやはり31人の教官や基幹兵(精鋭の兵士ですが、ここでは指導役といったところです)と共に島で共同生活を送りながら訓練を始めます。
隊員一人一人に担当がつくシステムですが、その訓練は想像を絶するものでした。こんな逸話があります。
無人島シルミドを訓練所に改造するため先に島に入っていた基幹兵たちに対し、教官らは粉にした人骨を入れた杯に焼酎を注ぎながら「訓練兵に人間性を持って接するのではなく、悪鬼のように教えよ」と注文していたというのです。
映画や過去の写真にあるように、部隊の印は頭蓋骨の下に大腿骨2本を×型にクロスさせたものですが、これは島にあった中国人の墓を掘り起こした遺体の骨だそうです。前述した「粉」も同じ骨です。
シルミド部隊の写真。訓練兵と基幹兵、教官が写っています。
そもそも、部隊員たちは一般人です。そんな彼らを数か月で平壌にこっそり侵入し金日成を暗殺する人間兵器に仕立て上げることはどう考えても不可能です。しかし訓練はそんな事情に構わず行われました。
高所で命綱を付けずに綱渡りをさせ、完全武装で海中を歩かせるといった形です。脱落する者には小銃や機関銃を発砲することもありました。こんな過酷な訓練の過程で死人も出ました。身体が弱かった隊員に治療も受けさせず訓練を課したのです。
シルミドで訓練が始まった68年4月から事件が起きる71年8月までの3年4か月のあいだ、31人のうち7人が亡くなりました。死に至る過程は溺死2人、逃走2人、自殺3人とされていますが、6人は制裁を含めた他殺とされています。遺体や焼かれ骨は海に撒いたため、墓もありません。
待遇面でも募集時の約束は守られませんでした。当初こそ毎日肉のスープや山盛りのご飯やおかずが出たものの、3か月を過ぎる頃からは食事が粗末になっていきました。
事件が起きる頃には麦飯に塩のスープ、たくあんになっていました。タバコの配給も数か月後には無くなりました。さらに給料もはじめの3か月しか貰えず、外出も全く許されないといった形です。
このため、訓練兵の一部は隣接する島に渡り、女性を強姦する事件を起こしています(その後、毎月一度、仁川へと集団で買春に行くよう教官側が手配します)。
待遇悪化の背景には、ピンハネがありました。後に明らかになったことですが、事件直前までも「シルミド部隊」に対しては充分な予算が出ていました。しかし誰かが間でその予算をポケットに入れていた訳です。
このような厳しい訓練と島に監禁され満足に食事も与えられない状況を指し、シルミド部隊を「奴隷部隊」であったとする視点もあります。また、軍属ではないまま訓練を受ける「幽霊部隊」という見方もあります。
実際に島で何が行われていたのかは、今なお正確には分かりません。シルミド事件同時に生き残り、後に死刑になった4人の訓練兵が軍検察で証言した内容がすべてだからです。これすらも04年に遺族の要求によりようやく公開されたものです。
映画では途中、隊員たちが平壌に向けて出発するも、軍上層部からの指示で取り止めになるシーンがあります。隊員たちは怒りを爆発させ、平壌に送ってくれるよう強く訴えますが、これも演出です。
史実では一度だけ、隊員に出動命令が下ったことがあります。
訓練開始から1年半が経った69年10月のことで、隊員のうち十数名が船でシルミドを離れ、西北端の白翎島(ペクリョンド)に待機します。白翎島というのは今でこそ観光地としても有名ですが、南北が対峙する最前線です。09年には韓国の哨戒艦『天安』が同島沖で北朝鮮の攻撃により沈没しています。
69年10月のこの時、隊員たちは平壌へと侵入する最終命令を待っていました。方法は気球を用い平壌上空に達し、そこから落下傘で降下し、金日成を暗殺するというものでした。しかし3日後に撤収命令が下ったといいます。
当時すでに、金日成の暗殺は時代に沿わないものになっていました。米国はベトナム戦争にかかりきりで朝鮮半島で新たな危機を招くことを望まず、68年1月に北朝鮮により拿捕されたプエブロ号の船員を無事に救い出すことが最優先となっていました(同年12月23日に解放)。
こうして少しずつシルミド部隊は「漂流」していきます。目的も平壌の飛行場の爆破や、主要鉱山、ミサイル基地の爆破といった形でコロコロ変わります。
1970年8月15日には、部隊創設を命じた朴正熙大統領みずからが『815平和統一構想宣言』を発表し、武力を用いない民族自身が未来を決める形での平和統一という、それまでの南北対立の枠組みを180度変える提案を行います
さらに米中の「デタント(緊張緩和)」が追い打ちをかけます。
世界的な緊張緩和の流れの中で、韓国は翌71年8月に南北赤十字会談を提案し北朝鮮がこれを受け入れ、分断後初の本格的な南北対話が始まります。「『1.21事態』の報復のための部隊」は、完全に時代遅れの遺物となっていきました。
政府も部隊の扱いをどうすべきか考えを巡らす中、シルミド内部では隊員たちの不満が広がっていました。
映画ではアン・ソンギ演じる訓練隊長が「隊員の全員殺害」という政府の決定を隊員の一人にわざと盗み聞きさせるシーンが出てきます。
これが隊員決起のトリガーとなるのですが、現実では「任官やベトナム戦争への派遣(韓国軍は64年から73年にかけてベトナム戦争に延べ32万人を派兵し約5千人が戦死した)」といった隊員の願いが聞き入れれなかったという噂が広まったことが決定的だったとされています。
つまり、幽霊や奴隷といった身分から解放される可能性がないと、隊員たちは悟ったのです。
1971年8月24日の中央日報記事。「あまりにも抑圧され騙されて生きてきた」と書かれている。同紙記事をキャプチャ。
「あまりにも抑圧され騙されて生きてきた」
シルミド事件が起きた翌日、全国紙『中央日報』の社会面に掲載された記事の見出しです。生存し捕縛された隊員が発した言葉ですが、事件の本質を表しています。
71年8月23日午前6時30分、24人の隊員は決起しました。目的は直訴。シルミド部隊が置かれた状況を社会や指導者に訴えようとするものでした。
前日に遅くまで酒盛りをしていた基幹兵18人を殺害し、完全武装で島を離れソウルへと向かいます。なお、映画では指導役の基幹兵と隊員の間に普段から心の交流があったように描かれていますが、実情は異なったようです。
厳しい訓練を課している上に、粗末な待遇の中で目的もないまま島に閉じ込めている隊員たちがいつ暴発するか分からず、ただならぬ緊張の毎日だったようです。決起前日も、一本の酒を分け合ったことで隊員全員が基幹兵たちに集団で殴打されました。
隊員の姿は目立ち、韓国の警察に発見されます。当初は北朝鮮からの攻撃と錯覚されましたが、以前シルミドで勤務していた副士官が「オソリ(アナグマ)が飛び出してきた!」と気づきました。
事件当時のバスの写真。事件当日の『中央日報』より。当時、同紙は夕刊紙だった。
24人の隊員たちはシルミドでの交戦で2人、途中、軍警と交戦する過程でさらに2人が死亡し、20人になっていました。バスを奪いソウルに入りますが、現在の大方(テバン)洞前で軍警に阻まれ、最後は手榴弾で自害します。
14人はその場で死亡しましたが、6人は病院へ運ばれ、この中で4人が一命を取り留め、軍事裁判に臨むことになります。
政府は事件後すぐに、これを「武装共匪(武装した北朝鮮のスパイの意)」によるものと発表しましたが、その数時間後に「空軍特殊犯による暴動事件」と差し替えます。いずれも事実とは異なるもので、事件の本質を歪曲しようとする政府の姿勢が透けて見えます。
事件当日の『中央日報』一面。「共匪」という文字がある。北朝鮮のスパイが起こした事件という位置づけだった。
事故翌日の『朝鮮日報』一面。「軍管理特殊犯」の武装乱動に変わっている。
軍事裁判では4人の隊員によって、これまで見てきたようなシルミドでの過酷な生活が明かされますが、裁判は完全非公開の中で行われました。1審、2審ともに死刑判決がくだります。
実は裁判に先立ち、野党議員が空軍の刑務所に拘束されていた4人の隊員を面談したことがあります。国会による正式な調査でした。
しかしこの時に、4人の隊員はシルミドの現実を語らずに「軍事保安上、何も言うことはできない」と口をつぐみました。
世の中にシルミドの実情が知られるのを防ごうと、「ベトナム行き」をちらつかせ隊員たちを黙らせたというのが、今では分かっています。2審判決後に上告しなかったのも同じ理由によるものです。
軍はシルミド事件が起きた直後、島にあった関連書類をすべて焼却し、残った書類も1998年に全て処分しました。
時は流れ04年、『北派工作員特別法』が成立します。これに尽力したのが、私が今回の記事を書く際に大いに参考にした(正確にはほぼ全て引用です)『北派工作員の信実』という本(22年、カウルバム)を書いた金成鎬(キム・ソンホ)さんです。
北派工作員とは、文字通り北朝鮮に秘密裏に派遣される韓国の工作員です。同書によると1951年から2002年まで1万3835人の工作員が養成され、うち1万1273人が実際に北朝鮮へと派遣され、7987人が死んだそうです。
『北派工作員の信実』表紙。800ページを超える大著です。
進歩紙『ハンギョレ』記者出身で、当時国会議員を務めていた同氏は、100人以上の元北派工作員と面談し、彼らの名誉回復と保障を実現しますが、その過程で「シルミド部隊」もまた脚光を浴びることとなりました。映画も同じ時期に公開され(史実とは異なる内容が多かった者の)世論を後押ししました。
金氏は著書の中で100ページあまりにわたり「シルミド部隊」を取り上げながら、これを「朴正熙の無謀な報復心理の上に、中央情報部と各軍の忠誠競争が生んだ悲劇の産物」と位置づけています。
そしてこの事件の加害者は隊員たちではなく「ただ大韓民国政府だけ」と結論を下しています。島を脱出した隊員(訓練兵)たちは国家の被害者であり、すべての行為は「正当防衛である」というものです。
金氏はさらに「国民の生命よりもみずからの失敗を隠ぺいすることに汲々としていた国家の失敗が、シルミド事件の始まりであり結末だ」と断じます。
「シルミド部隊員」の遺族には08年になってようやく保障が行われました。父母には4000万ウォン、それ以外の遺族には3000万ウォンが支払われました。しかしこれは、他の北派工作員への保障の数分の1に過ぎませんでした。
71年8月にシルミドを脱出した24人の隊員のうち、20人の遺骸は05年に発掘され、17年8月に政府により合同奉安式が行われました。
部隊員は現在、政府により正式に「命を国家安保のために捧げ、一つしかない個人の生命を担保に特殊任務を遂行した国家有功者であり、祖国のために忠誠を果たした真の愛国者」と明示されています。
しかし、軍人を殺害したため国立墓地には入れないという「二重の待遇」を受けています。
今回の韓国政府の決定により、05年の発掘調査で見つからなかった死刑囚4人の遺骸が発掘される予定です。
国防部の謝罪について、長官ではなく幹部の代読で行われることに批判の声もあります。「国家により使い捨てられた人々」について、どんな謝罪が行われるのか、続報を伝えていきます。
(6)オドゥサン統一展望台に「脱北民を称える碑」
烏頭山(オドゥサン)統一展望台といえば、ソウル都心から最も近い統一展望台として知られています。統一展望台というのは北朝鮮を望める展望台のことで、安保教育(北朝鮮への警戒心を強めるための教育)や、統一教育の場として活用されています。
とはいえ、今や韓国人は誰一人として北朝鮮に行けないので、単純に遠くからでも北朝鮮を眺めてみようという目的で訪れる人が多いでしょう。
多くは軍事境界線から南側2キロ以内の非武装地帯(DMZ)内にあり、約250キロの軍事境界線に沿って10数個あります。私も入れる所は全て行ってみましたが、中には驚くほどよく北朝鮮が見える場所もあります。
オドゥサン統一展望台から北朝鮮を望む。漢江と臨津江(イムジンガン)が出会う場所に位置しており、対岸は北朝鮮の黄海北道の開豊(ケプン)郡です。8月2日筆者撮影。
余談になりますが、軍事境界線を訪ねるツアーを組んで日本に住む皆さんをご案内してみたいところです。なかなか余裕がなくずっと実現できていませんが…。
オドゥサン統一展望台については以前、YouTubeにまとめたことがあるのでお時間ある方はご覧下さい。ソウル都心から車で一時間かかりません。つまり、ソウルと北朝鮮は車で一時間の距離にあるということです。
その展望台に『脱北民を称える碑』が設置され、8月1日に除幕式が行われました。除幕式には金暎浩(キム・ヨンホ)統一部長官が参加したそうです。翌2日、私も直接、碑を見に息子と一緒に展望台に足を運びました。
碑を正面から撮影したもの。2日、筆者撮影。
碑を右側から撮影したもの。手前から順に、渇望・勇気・希望と刻まれている。2日、筆者撮影。
碑は展望台の地下一階につながる小さな庭園に置かれ、3つのパーツで構成されています。右から「渇望」、「勇気」、「希望」と刻まれています。正面から見ると、空洞から北朝鮮の黄海北道が覗けるようになっています。なかなか凝ったデザインといえます。
地面に埋め込まれた説明パネルにはこう刻まれています。
「この空間と造形物は北韓離脱住民たちの、自由に向けた‘渇望’と‘勇気’を刻み、脱北の過程で犠牲となった者たちを記憶するために『第1回北韓離脱住民の日』を契機に造成されました。私たち皆は、大韓民国の懐に先に訪ねてきた北韓離脱住民を温かく抱きしめ、臨津江を越えた先にある北側の地の北韓同胞たちに自由と統一の夢を伝えていきます。2024年7月14日」
説明パネル。2日、筆者撮影。
韓国入りした脱北民はこれまで、約3万4000人に達します。しかし北朝鮮からの脱出を望んだ全ての人が安全に韓国にたどり着いた訳ではありません。脱北過程で捕まり北朝鮮に強制送還された人や、メコン川やゴビ砂漠といった危険な旅程で命を落とした、表面化されていないたくさんの人がいます。この碑はそんな彼らを悼み、その勇気を称えるものです。
碑に政治的な目的があるのかと聞かれれば「そうだ」と答える他にありません。碑を設置した現政権の思考は「北朝鮮住民は金正恩により自由を抑圧されている」というもので、碑を通じ、北朝鮮からの脱出を後押ししていると考えられるからです。このような碑は、保守政権下でしか作られないでしょう。
一方で、脱北する過程で斃れた名も無き北朝鮮の人々を考える場合、この碑はヒューマニティという見地から立派な意味を持つことになります。
南北関係が今後どうなるかは分かりませんが、その歴史の中に刻まれる碑が新たに誕生したと私は考えます。寂寞とした空間に鎮座する碑は墓標のようでもあり、新たな道標のようでもありました。
中央の空洞からは北朝鮮が望める。2日、筆者撮影。
◎あとがきに代えて
今週は以上です。1959年から84年にかけて行われた北朝鮮への「帰国事業」について、これを「人権の蹂躙」とする韓国の真実和解委員会の決定といったニュースも入れようと思ったのですが、あまりにも長くなってしまうので、次回以降に取り扱います。
来週8月15日は、大日本帝国による植民地支配からの解放を祝う『光復節』です。この日の演説を通じ、尹大統領が南北統一方案について重要な言及をするとされます。私もいくつか取材していますが、北朝鮮住民への「責任」を語る内容になると言われています。上記の碑ともつながる観点でしょう。内容が出次第、記事を通じ解説します。
しかしもう、解説だけするのは飽きました。これからは解説だけでなく、未来を作る仕事をしていこうと真剣に決心しました。時間がありません。ありがとうございます。また次号でお目にかかります。(徐台教)